今週の「今週、妻が浮気します」
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essay/satomi
続けてしまいます。
ハジメと陶子のすれ違う感覚、がよくわかりました。
自分に無理をしながら、頑張って、頑張って、いっぱいいっぱいだった、妻、陶子。
朝食の準備から始まって、仕事では子どもや家庭をいいわけをしないで、せいいっぱい頑張り、仕事を終えれば、子どもの待つ保育所へ走る、走る。家に帰れば、子どもの世話と家事に追われ、愚痴や相談をしたい夫、ハジメは仕事で遅くまで帰らない。また、朝が来て、誰よりも早く起きて、朝食の準備をし、夫と子どもを起こし、仕事へ走る・・・そして、まためいっぱい仕事をして・・・。
それが、辛かったと、無理をしていたと、愚痴を聞いてくれる、相談にのってくれる、そんな夫であって欲しかった、その事をわかってくれる夫でいて欲しかった。完璧な妻なんかではなかった、無理をして、無理を続けて、いっぱいいっぱいだった、と吐露する陶子。
そんなとき、浮気相手の「いつも走っているね。無理せず、肩の力を抜いて・・・」と言う言葉に全身の力が抜けたと・・・。
それを聞いた、夫、ハジメの「浮気の理由はそんなことだったのか」。
「そんなこと」・・・。
「まさか」と同じように、相手の思いが、自分の小さな世界、勝手な感覚や価値観、思い込みで、相手とはまったく違うもの、「そんなこと」になってしまうことを思い知らされます。自分の価値観だけで、相手のことを見ると「そんなこと」だらけです。自分の思い込みだけで、相手を勝手にイメージすると、まったく思いやりや想像力に欠ける「そんなこと」だらけで、相手ばかりを責めてしまいます。日常の中で、本当によくやってしまうことです。「そんなこと」と言われたら、自分にとって悩んできた、辛かった、苦しかったことを「そんなこと」と言われたら、ひどく傷つきます。自分の思いは「そんなこと」だったのか、その程度のことだったのか、という傷つきと、相手に自分の気持ちや思いがわかってもらえなかったという傷つきと。2度傷つくように思います。陶子のように頑張る女性はたくさん、たくさんいます。走って、走って、頑張って。負けないように、手を抜かないように、誰かに負担をかけないように、何でこんなに頑張るのか、最後にはわからなくなって、頑張ることが習慣になって、まわりの人も頑張る自分に慣れて、頑張る自分を見る目が当たり前になって、それが日常になって、今日も明日も続いて、いつまで続くのかわからなくて、休みたいのに、休めなくて。それを、まわりは「完璧」と、「よくできている」と思い込みます。そんないっぱいいっぱいの思いが小さな、些細なうちに、相手に伝えことができたらいいのですが、少し大きくなって、していることが当たり前に習慣化されてしまうと、もう、自分でもどうすることもできない、まわり続けるサイクルのようになっていってしまって・・・。でも、誰かに助けて欲しくて、わかって欲しくて。無理をして完璧なことに疲れて。しんどくて。ある時、ぷつりと・・・。そして、それを「そんなこと」と言われたら。あまりに感覚が違ってしまっていて、言葉が見つからない・・・。頑張るように誰に言われた・・・完璧にしろと誰に言われた・・・。考えてみれば、またそれも自分の思い込みで、自分で自分を責めることになっていたと気づいて。でも、気づいても、「もうやめます」「もう頑張らない」と宣言しても・・・誰も具体的に手伝って、支えてくれる人がいないのならば・・・。やっぱり、頑張り続けるしかありません。そして、ある時、ぷつりと・・・。
ハジメと陶子のすれ違う感覚、がよくわかりました。
自分に無理をしながら、頑張って、頑張って、いっぱいいっぱいだった、妻、陶子。
朝食の準備から始まって、仕事では子どもや家庭をいいわけをしないで、せいいっぱい頑張り、仕事を終えれば、子どもの待つ保育所へ走る、走る。家に帰れば、子どもの世話と家事に追われ、愚痴や相談をしたい夫、ハジメは仕事で遅くまで帰らない。また、朝が来て、誰よりも早く起きて、朝食の準備をし、夫と子どもを起こし、仕事へ走る・・・そして、まためいっぱい仕事をして・・・。
それが、辛かったと、無理をしていたと、愚痴を聞いてくれる、相談にのってくれる、そんな夫であって欲しかった、その事をわかってくれる夫でいて欲しかった。完璧な妻なんかではなかった、無理をして、無理を続けて、いっぱいいっぱいだった、と吐露する陶子。
そんなとき、浮気相手の「いつも走っているね。無理せず、肩の力を抜いて・・・」と言う言葉に全身の力が抜けたと・・・。
それを聞いた、夫、ハジメの「浮気の理由はそんなことだったのか」。
「そんなこと」・・・。
「まさか」と同じように、相手の思いが、自分の小さな世界、勝手な感覚や価値観、思い込みで、相手とはまったく違うもの、「そんなこと」になってしまうことを思い知らされます。自分の価値観だけで、相手のことを見ると「そんなこと」だらけです。自分の思い込みだけで、相手を勝手にイメージすると、まったく思いやりや想像力に欠ける「そんなこと」だらけで、相手ばかりを責めてしまいます。日常の中で、本当によくやってしまうことです。「そんなこと」と言われたら、自分にとって悩んできた、辛かった、苦しかったことを「そんなこと」と言われたら、ひどく傷つきます。自分の思いは「そんなこと」だったのか、その程度のことだったのか、という傷つきと、相手に自分の気持ちや思いがわかってもらえなかったという傷つきと。2度傷つくように思います。陶子のように頑張る女性はたくさん、たくさんいます。走って、走って、頑張って。負けないように、手を抜かないように、誰かに負担をかけないように、何でこんなに頑張るのか、最後にはわからなくなって、頑張ることが習慣になって、まわりの人も頑張る自分に慣れて、頑張る自分を見る目が当たり前になって、それが日常になって、今日も明日も続いて、いつまで続くのかわからなくて、休みたいのに、休めなくて。それを、まわりは「完璧」と、「よくできている」と思い込みます。そんないっぱいいっぱいの思いが小さな、些細なうちに、相手に伝えことができたらいいのですが、少し大きくなって、していることが当たり前に習慣化されてしまうと、もう、自分でもどうすることもできない、まわり続けるサイクルのようになっていってしまって・・・。でも、誰かに助けて欲しくて、わかって欲しくて。無理をして完璧なことに疲れて。しんどくて。ある時、ぷつりと・・・。そして、それを「そんなこと」と言われたら。あまりに感覚が違ってしまっていて、言葉が見つからない・・・。頑張るように誰に言われた・・・完璧にしろと誰に言われた・・・。考えてみれば、またそれも自分の思い込みで、自分で自分を責めることになっていたと気づいて。でも、気づいても、「もうやめます」「もう頑張らない」と宣言しても・・・誰も具体的に手伝って、支えてくれる人がいないのならば・・・。やっぱり、頑張り続けるしかありません。そして、ある時、ぷつりと・・・。