家族は密室の中にいます 2006.4.11
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essay/satomi
先日駅の定期券売り場に並ぶたくさんの学生たちを見かけました。新学期、そして新入生や新入社員でしょうか。桜とはまた違う、少し嬉しくなるような春を感じました。
ほんの数年前??高校生だったころ、私の属した、いわゆるなかよしグループはかなりの大所帯で、10人程度でした。1年生の頃に2、3人の小さなグループが意気投合して融合した結果で、クラス替えでシャッフルされても誰か彼かと一緒になれて、休み時間は廊下で集まっては大騒ぎをしていました。まさに箸が落ちても可笑しい年頃で、我先に話題を提供し合っては、おなかを抱えて笑い転げていました。ホンと楽しかったです・・・。
ある日何の話題からそうなったのか、それぞれの家庭のお風呂の入り方・・・みたいな話になりました。誰から入るかとか、誰と誰は一緒に入るとか、いつまで父親とお風呂に入ったとか、石鹸の使い方、タオルの使い方から、そのメーカー、どこから洗うかとか、湯の温度とか、それこそ本当にくだらない、たわいもない話にお互い大笑いしました。なぜ大笑いかというと、それぞれの家庭のお風呂事情が誰ひとりとして同じものがなく、中には信じられない、想像つかない、考えられない習慣の家庭があったりしたからでした。「ひゃー」「うそだぁ」「なんでぇ?」「それ、嫌だ」「そんなの汚いじゃん」「それ、いい、いい」といいたい放題。そんな些細な生活の事を誰かとあれこれ話しをすることはあまりないものです。次から次におかしなことが出てくるのですが、面白いことに、それぞれ誰も自分のそのお風呂事情を何の不思議にも思わず、当たり前に思っていて、世間の人たちも同じようなものだと思っていました。家庭の中の、家族の中の習慣はそんなものかもしれません。つまりは、結婚後のカルチャーショックや生活習慣のいさかいは、至極当たり前のことということです。
ただこの楽しかった大はしゃぎを、私はよく思い出します。それはDVに取り組む、弁護士の方だったり、民間や公のサポーターの方だったり、シェルターの方だったりから、お話を聞くときです。DVは4件に1件の割合で起きていて、20件に1件は命に関わる、という調査報告も出ている、深刻な問題です。ただ、その当事者(被害者)は自分が受けているDVをDV(暴力)と思わず、みんなこんなもんだ、と思っていることが非常に多いのです。それは、なぜか?家庭が、家族が家という密室の中にいるからです。住まいだとか、車だとか、どこに勤めているのだとか、どの学校に入っただとか、そんなことは、暮らしの中で互いに伺い知ることができますが、一歩家という密室の中に入り込むと、その中の様子は、その状況は外からは垣間見ることは難しいものです。そとに知られない、そとには知られないようにする(DVの加害者の多くはそう振舞います)ということは、家の中で起きていることを社会から評価されないということです。家庭の中だけ、自分だけの判断のみで当たり前のことだと思い込んでしまうということです。だからDVの被害者は誰もがこんなもんだと思い込み、どこもこの程度の同じようなことはあるなどと考え、さらには自分を悪く思い、自分のせいだと自分を責め、暴力を受けているという意識さえもなくなっていきます。そして大変な犯罪にまで及んでいきます。自分が何をされているのか認識して欲しい、なんとか助けを外に発信して欲しい、勇気をもって欲しい、と願うのですが、それは本当に非常に難しいことなのです。DVの解決策の第1位は「加害者(バタラー)の死」です。身震いをするような解決策です。アメリカなどでは、DVの加害者に対して、いろいろな教育プログラムがつくられ、施されるようになりましたが、考えを変えられる、暴力を振るうことを止められる、自分のしたことが暴力だったと認識のできる加害者は2%に満たないという報告もあるそうです。逃げるしかない、のが現状なのです。車の中で、誰もいない家の彼の部屋の中で、デートDVも非常に増えていると最近新聞記事にもなっていました。他の異性と遊ばせないことや、携帯電話をチェックすることや、逐一何をしているのかを報告させる、監視するとか、それらは「愛されている」からではありません。「やきもちやき」でもありません。それがDⅤ、暴力へと変わっていくことを、知って下さい。友だちとのお風呂事情のおしゃべりは、まさにDVの状況と同じように思えるのです。
ほんの数年前??高校生だったころ、私の属した、いわゆるなかよしグループはかなりの大所帯で、10人程度でした。1年生の頃に2、3人の小さなグループが意気投合して融合した結果で、クラス替えでシャッフルされても誰か彼かと一緒になれて、休み時間は廊下で集まっては大騒ぎをしていました。まさに箸が落ちても可笑しい年頃で、我先に話題を提供し合っては、おなかを抱えて笑い転げていました。ホンと楽しかったです・・・。
ある日何の話題からそうなったのか、それぞれの家庭のお風呂の入り方・・・みたいな話になりました。誰から入るかとか、誰と誰は一緒に入るとか、いつまで父親とお風呂に入ったとか、石鹸の使い方、タオルの使い方から、そのメーカー、どこから洗うかとか、湯の温度とか、それこそ本当にくだらない、たわいもない話にお互い大笑いしました。なぜ大笑いかというと、それぞれの家庭のお風呂事情が誰ひとりとして同じものがなく、中には信じられない、想像つかない、考えられない習慣の家庭があったりしたからでした。「ひゃー」「うそだぁ」「なんでぇ?」「それ、嫌だ」「そんなの汚いじゃん」「それ、いい、いい」といいたい放題。そんな些細な生活の事を誰かとあれこれ話しをすることはあまりないものです。次から次におかしなことが出てくるのですが、面白いことに、それぞれ誰も自分のそのお風呂事情を何の不思議にも思わず、当たり前に思っていて、世間の人たちも同じようなものだと思っていました。家庭の中の、家族の中の習慣はそんなものかもしれません。つまりは、結婚後のカルチャーショックや生活習慣のいさかいは、至極当たり前のことということです。
ただこの楽しかった大はしゃぎを、私はよく思い出します。それはDVに取り組む、弁護士の方だったり、民間や公のサポーターの方だったり、シェルターの方だったりから、お話を聞くときです。DVは4件に1件の割合で起きていて、20件に1件は命に関わる、という調査報告も出ている、深刻な問題です。ただ、その当事者(被害者)は自分が受けているDVをDV(暴力)と思わず、みんなこんなもんだ、と思っていることが非常に多いのです。それは、なぜか?家庭が、家族が家という密室の中にいるからです。住まいだとか、車だとか、どこに勤めているのだとか、どの学校に入っただとか、そんなことは、暮らしの中で互いに伺い知ることができますが、一歩家という密室の中に入り込むと、その中の様子は、その状況は外からは垣間見ることは難しいものです。そとに知られない、そとには知られないようにする(DVの加害者の多くはそう振舞います)ということは、家の中で起きていることを社会から評価されないということです。家庭の中だけ、自分だけの判断のみで当たり前のことだと思い込んでしまうということです。だからDVの被害者は誰もがこんなもんだと思い込み、どこもこの程度の同じようなことはあるなどと考え、さらには自分を悪く思い、自分のせいだと自分を責め、暴力を受けているという意識さえもなくなっていきます。そして大変な犯罪にまで及んでいきます。自分が何をされているのか認識して欲しい、なんとか助けを外に発信して欲しい、勇気をもって欲しい、と願うのですが、それは本当に非常に難しいことなのです。DVの解決策の第1位は「加害者(バタラー)の死」です。身震いをするような解決策です。アメリカなどでは、DVの加害者に対して、いろいろな教育プログラムがつくられ、施されるようになりましたが、考えを変えられる、暴力を振るうことを止められる、自分のしたことが暴力だったと認識のできる加害者は2%に満たないという報告もあるそうです。逃げるしかない、のが現状なのです。車の中で、誰もいない家の彼の部屋の中で、デートDVも非常に増えていると最近新聞記事にもなっていました。他の異性と遊ばせないことや、携帯電話をチェックすることや、逐一何をしているのかを報告させる、監視するとか、それらは「愛されている」からではありません。「やきもちやき」でもありません。それがDⅤ、暴力へと変わっていくことを、知って下さい。友だちとのお風呂事情のおしゃべりは、まさにDVの状況と同じように思えるのです。