「頼むから、離婚して。」
この言葉は、配偶者に対するものだと誰もが思うだろう。しかし、実際にこの台詞を口にしたのは高校生の女の子だった。つまり、今から七年前の十六歳の私だ。冷え切った家庭内の空気と嫌悪感だらけの重圧に耐えかねて両親相手に吐露したのだった。その後、「離婚」は現実のものとなった。
離婚を経験するのは、夫婦であった二人である。しかし、離婚について考えるのは、それだけではない。結婚を経験したことのない子どもであっても考えるのだ。いや、考えさせられるのだ。
私の両親は、仲の良い夫婦をしているものだと、物心付いた頃からずっと思っていた。勘違いしていた。一見、成り立っている平穏な家族という空間は、長年の母の我慢で成立していたのだった。父のあり方に我慢しきれなくなった母の張りつめた糸がプツンと切れたことから、家庭崩壊が幕を開けた。
私は十三歳だった。それまでの生活がガラリと変わった。父は帰るといつも怖かったし、そこから必死に目を反らす母がいた。それが嫌で子供である私と姉は、すぐに自分たちの部屋に閉じこもったものだった。毎日部屋で震えた。部屋の中に避難しても、父親が壁を殴る音とか、母親のすすり泣く声からは逃げられなかった。塾の問題集からとびきり難しい問題を見つけ、それを必死に解くことで現実から逃げようとした。ふと気付くと、握りしめていた鉛筆が折れていたり、ノートが涙と鼻水で水たまりと化して何も書けなかったりもした。問題に集中しようと、頭を掻きむしると大量のフケがノートの水たまりを埋めていった。今思うと、ストレス性の皮膚炎だったと察する。
あの時の私の苦しみと、両親が各々で感じた苦しみとでは、どちらが残酷であったのだろうか。なかなか幕を閉じない家庭の悲劇の中、高校受験を迎えることとなり、そんな異常な状況では自分の希望する道など進むことも出来なかった。子どもである自分が頑張れば、きっと親も頑張ってくれると「勘違い」し、当時の私は県内トップの高校に進学した。よい子になることで両親にもよき大人になってもらえると思った。
しかし、何も変わらなかった。娘の努力など、加速する家庭崩壊にはなんの歯止めにもならなかった。目的を失った高校生活は地獄だった。
いま振り返ってみると、子どもだった私に必要だったのは「現実を生き抜く知恵を教えてくれる大人」だった。あの時、どんなに酷な状況であっても、自分の人生なのだから自分で責任をとれるようにしなさいと教えてもらえたならと思う。私の両親と周りの大人達はそれが出来なかった。
親の人生と自分の人生を切り離して考える勇気を持つことを知りたかった。だから私は思う。離婚を考える夫婦は、堂々と、赤の他人を巻き込め、と。
世間体やら気にしている場合ではない。
自分たちのことで頭が一杯ならば、子どもはもっと混乱している。その子どものケアをしきれないならば、堂々と他人の力を借りて欲しい。離婚という一つの行為がもたらす影響の大きさを自分の持っている限りの想像力でイメージして欲しい。そしてもし、そのイメージの中で打ち震える子どもや強気な態度をとる子どもに出会うならば、自分の持てる愛情以上のものを注いでほしい。それができないならば、離婚は愛する子どもが花を咲かせることを阻止してしまいますよ。
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